第一章五月の鍋5月10日 日
修一の仕事は、他人の家に上がることだった。
給湯器の交換、ガスコンロの点検、風呂釜の修理。北陽住設は社員が七人しかない会社で、修一はそのうちの一人として、一日に四軒から六軒を回る。
家に上がると、その家のことが、だいたいわかる。
台所の油の溜まり方で、何年その家に人が住んでいるかがわかる。風呂場の手すりの位置で、誰の体が弱っているかがわかる。廊下に新聞が積んであれば、その家には、それを片づける人がいないということだ。
五月に入って、修一は一週間で十一軒回った。そのうちの八軒が、七十代以上の一人暮らしだった。
この市の、この地区は、そういう場所になっていた。
水曜の午後、修一は台所の床にしゃがんで、二十二年前の給湯器の配管を切っていた。家の主は八十四歳の男で、後ろのダイニングテーブルに座って、ずっと修一の背中を見ていた。
「にいちゃん、それ、いくらするの」
「本体と工事で、十六万八千円です」
「高いな」
「安いのもありますけど、追い焚きが付いてないんで」
「追い焚き、いるかな」
「風呂、毎日入られます?」
「二日に一回」
「なら、あったほうが楽です」
男は、しばらく黙っていた。それから、「にいちゃんは、親は」と言った。
「母がいます」
「一緒に住んでるの」
「住んでます」
「そりゃええな」
修一は、返事をしなかった。バーナーの音がしていたので、聞こえなかったことにできた。
修一は四十六歳で、結婚していなかった。父は十五年前に死んだ。それから母と二人で、駅から北へ三キロほど入ったところの、古い建売住宅に住んでいる。
部屋が四つあって、二人しか使っていない。
母は網野ヨシといって、七十八歳だった。市立の小学校で、給食の調理員を三十八年やって、定年で辞めた。それから十三年経つ。
体は丈夫だった。膝が少し悪いくらいで、病院にかかっているのは血圧の薬だけだ。
五月十日、日曜日。
その日、修一は昼まで寝ていた。土曜に緊急の呼び出しが二件あって、帰ったのが十一時を回っていたからだ。
起きて、居間に行くと、母がテレビの前に座っていた。相撲でも野球でもない、どこかの町を歩く番組がついていた。
「起きたか」
「起きた」
「昼、食べるか」
「いい。夕方に食う」
母は「そうか」と言って、またテレビのほうを見た。
修一は風呂に入って、洗濯物を干して、車のオイル交換に行った。戻ってきたのが四時半ごろだった。
玄関を開けた瞬間に、匂いでわかった。
焦げていた。
台所に走ると、コンロの上でアルミの鍋が煙を上げていた。中身は、たぶん味噌汁だった。水分が全部飛んで、黒い層が底に張りついていた。取っ手のプラスチックが溶けて、へたっていた。
修一は火を止めて、換気扇を回して、窓を開けた。
母は、居間にいた。
テレビを見ていた。
同じ番組が続いていた。番組の中で、誰かが商店街の惣菜屋のコロッケを食べていた。
「母さん」
「ん」
「鍋、火ぃつけっぱなしやった」
母は、こちらを見た。
それから、「ああ」と言った。
「そうか」
「そうか、やない。家が焼けるとこやった」
「そうやな」
母は立ち上がって、台所に来て、鍋を見た。
覗き込んで、黒いところを指で触ろうとしたので、修一は「熱い」と言って手を止めた。
「これ、いつのや」
「知らん。母さんが作ったんやろ」
「作ったかな」
母は、しばらく鍋を見ていた。
それから、こう言った。
「火ぃつけたんを、忘れてしもた」
その言い方が、修一の中に、いつまでも残った。
言い訳でも、ごまかしでもなかった。母は、起きたことを、そのまま報告していた。天気の話をするみたいに。
修一は、鍋を流しに持っていって、水を張った。じゅう、と音がした。
その音を聞きながら、修一は、変なことを考えていた。
この人は、三十八年間、火を見る仕事をしていた。
小学校の給食室で、五百人分の汁物を、直径八十センチの回転釜で作る仕事だ。火から目を離せば、その日、五百人が昼飯を食べられない。母は、三十八年、一度もそれをやらなかった。
その人が、味噌汁を焦がした。
修一は、鍋の底を金だわしでこすった。焦げは、なかなか落ちなかった。
夜、二人でうどんを食べた。
母は普通に食べて、普通に片づけて、普通に風呂に入った。
寝る前に、修一は台所に立って、コンロの元栓を閉めた。
閉めながら、これは今日だけのことだ、と思った。
誰にでもある。疲れていれば、忘れる。七十八なら、なおさらだ。
そう思っておくほうが、その日は楽だった。
第二章四時になると5月下旬 – 6月
次に修一が気づいたのは、鍋のことではなかった。
五月の下旬、たまたま平日の午後に家にいた日があった。取り付け予定だった機器の入荷が遅れて、午後の予定が全部飛んだのだ。
修一は居間で伝票の整理をしていた。母は、隣の四畳半で、洗濯物をたたんでいた。
四時を少し過ぎたころ、母が立ち上がった。
その立ち上がり方が、妙だった。
テレビを見ていて何かを取りに行く、という立ち方ではなかった。用事のある人間の立ち方だった。腰を伸ばして、部屋を見回して、迷いなく廊下に出た。
母は玄関に行って、サンダルを履いた。
「どこ行くん」
修一が声をかけると、母は振り返った。
「迎えに行かな」
「迎え?」
「そう。もう四時やろ」
母は、当たり前のことを言っている顔だった。
「誰の迎えや」
母は、少し止まった。
それから、「子ども」と言った。
「どこの子や」
「……」
母は、答えなかった。
答えられなかったのではなく、答える必要を感じていないようだった。
修一は玄関まで行って、母の腕を軽く持った。
「今日は、ええやろ。もう帰ってきてるから」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。とっさに出た嘘だった。
でも、母はそれで納得した。
「そうか。帰ってきてるか」
「帰ってきてる」
「ほな、ええわ」
母はサンダルを脱いで、四畳半に戻って、洗濯物の続きをたたんだ。
三分で終わった。
修一は、玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。
迎えに行かな、と母は言った。
母が迎えに行く子どもといえば、修一しかいない。
小学校に上がるまで、修一は駅前の保育所にいた。母は給食室の仕事を三時に上がって、自転車で迎えに来た。夏でも冬でも、四時ごろだった。
修一は、そのことを覚えていた。母の自転車の後ろの籠に、給食室からもらった食パンの耳が入っていることがあった。
四十年前の話だ。
そして、その子どもは、いま、目の前に立っている。
四十六歳で、作業着を着て、母の腕を持っている。
それから、修一は母の四時を見るようになった。
毎日ではなかった。週に三日か四日。何もない日もあった。
時間は、だいたい四時から四時半のあいだだ。母は立ち上がって、廊下に出て、玄関のほうへ行く。サンダルを履くところまで行く日もあれば、廊下の途中で止まって、そのまま引き返す日もあった。
修一が仕事でいない日は、どうしているのか。
それを、彼は知らなかった。
六月の頭に、隣の木戸さんに会った。木戸フサ江は八十四歳で、この家が建ったときからの隣人だった。
修一が車を洗っていると、木戸さんが門のところから声をかけてきた。
「修ちゃん、お母さん、大丈夫?」
「なんかありました?」
「この前ね、夕方、うちの前に立ってはったの。ぼーっと」
「……すんません」
「ううん。ぜんぜん。声かけたら、ちゃんとお返事しはったよ」
木戸さんは、それから、思い出したように笑った。
「けどねえ、お母さん、昔から四時にはお出かけやったもんねえ」
修一は、スポンジを持つ手を止めた。
「昔から?」
「そうよ。修ちゃんが中学に上がってからも、高校のときも。四時になったら、いっつも自転車で出ていかはった」
「……どこにですか」
「さあ。買い物ちゃう? うち、訊いたことないもん」
木戸さんは、そのまま自分の家に入っていった。
修一は、ホースの水を止めた。
中学に上がってから。高校のとき。
保育所の迎えは、修一が六歳で終わっている。
それからあとも、母は四時に出ていた。
三十年以上、この家の隣の人は、それを見ていた。
修一は、その三十年、この家にいた。
いたのに、知らなかった。
第三章物忘れ外来6月4日 – 6月18日
病院の予約は、思ったよりすんなり取れた。
総合病院の「物忘れ外来」は、月曜と木曜の午前だけやっている。電話をしたのが五月の終わりで、初診は六月四日の木曜、十時半だった。
修一の仕事は、シフトを前の週に組む。木曜を空けるのは難しくなかった。大峰さんに「親の病院で」と言うと、大峰さんは「行っとけ」と言って、それ以上は何も訊かなかった。
この人は五十四歳で、三年前に父親を看取っている。訊かないのは、たぶん、訊かなくてもわかるからだ。
母を病院に連れていくのに、修一は嘘をついた。
「血圧の薬、そろそろ替えたほうがええって」
「そうか」
「ついでに、いろいろ診てもらお」
「そうか」
母は疑わなかった。
その素直さが、修一には少しこたえた。以前の母なら、「なんで急に」と言ったはずだった。
診察室に入ると、医者は五十代くらいの男だった。白衣ではなく、水色のケーシーを着ていた。話し方がゆっくりで、母のほうを見て話した。修一のほうは、ほとんど見なかった。
最初に、テストがあった。
紙を一枚出して、医者は母に訊いた。
「網野さん、お歳はおいくつですか」
「七十八です」
「今日は何年の何月何日ですか」
「……六月。何日やったかな」
「だいたいでいいですよ」
「六月の、はじめのほう」
「何曜日ですか」
母は、修一のほうを見た。
修一は、目を逸らした。
「わかりません」
「はい。じゃあ、いまいるところは、どこですか」
「病院」
「そうですね」
それから、三つの言葉を覚えてくださいと言われた。桜、猫、電車。
百から七を引く計算をして、数字を逆から言って、その後で、さっきの三つを訊かれた。
母は、「桜」と言った。
それから、黙った。
「ふたつめ、なんでしたか」
「……」
「動物でしたよ」
「犬」
「猫でした」
「猫か」
母は、笑った。
「猫やったか。犬て言うてしもた」
修一は、椅子の上で、拳を握っていた。
結果は、三十点満点で14点だった。
医者は数字を口に出さなかったが、修一は横からカルテを見て、それを読んだ。数字だけが、やけにはっきりしていた。
「網野さん、少し休んでいてください。息子さんと、お話ししますので」
母は待合室に出された。
「ご家族の目から見て、いつからですか」
修一は、話した。
焦げた鍋のこと。四時に玄関へ行くこと。同じ話を一日に何度もすること。醤油が冷蔵庫に三本入っていたこと。
医者は、うなずきながら聞いていた。
「網野さん。今日の点数と、お話をうかがった感じでは、アルツハイマー型認知症の可能性が高いです。ただ、これは今日は決めません」
「決めない」
「頭の画像を撮ります。MRIと、血流の検査を。それから血液検査で、甲状腺やビタミンの不足を除外します。治る認知症、というのがまれにあるので、それをまず潰します」
「治るのが、あるんですか」
「あります。まれです」
この人は、期待を持たせる言い方をしなかった。
「検査の予約は、いちばん早くて、再来週になります。結果をお話しするのは、六月十八日の木曜でいいですか」
「はい」
「それと、もうひとつ」
「はい」
「火は、止めてください。今日から」
修一は、そのとき初めて、母がもう料理をしてはいけないのだと理解した。
六月十八日、木曜日。
診断名がついた。
アルツハイマー型認知症。中等度。
医者は、画像を見せながら説明した。左右の、耳の奥のあたりが、少し縮んでいるのだと言った。修一には、その灰色の写真の、どこが縮んでいるのか、正直よくわからなかった。
「薬を出します。ただ、この薬は、進行を少し遅らせるためのものです」
「遅らせる」
「はい。戻すものではありません」
「……どのくらい、遅れますか」
「人によります。半年から一年、と言われることが多いです」
医者は、それから、母のほうを向いた。
「網野さん。いまのお話、聞こえていましたか」
母は、うなずいた。
「わたし、忘れていくんですね」
「はい」
「そうですか」
母は、それだけ言った。
帰りの車の中で、母は窓の外を見ていた。
六月の、梅雨の合間の日で、田んぼに水が張ってあった。まだ苗が短くて、水面のほうがよく見えた。
信号で止まったとき、母が言った。
「修一」
「ん」
「わたしな」
「うん」
母は、窓を見たまま、こう言った。
「人生の終わりが、無ではない可能性を、信じたい」
修一は、ハンドルを持ったまま、母のほうを見た。
信号が青になって、後ろの車がクラクションを鳴らした。
修一は車を出した。
母がそんな喋り方をするのを、彼は四十六年間で一度も聞いたことがなかった。
母は、標準語をほとんど使わない人だった。「可能性」という言葉を口に出すのも、たぶん、初めてだった。
その一文だけが、どこか別のところから持ってきたみたいに、きれいに整っていた。
用意してあった文章だ、と修一は思った。
ずっと前から、言うために、どこかに置いてあった文章だ。
「母さん、それ、どういう」
修一は訊いた。
母は、こちらを向いた。
そして、まったく普通の顔で、こう言った。
「今日、豆腐買うたか」
その日、母がその話に戻ることは、二度となかった。
第四章手は覚えている6月末 – 7月
六月の終わりに、修一はコンロを替えた。
仕事柄、そういうものは手に入る。安全装置の付いた最新のやつで、消し忘れると自動で止まる。ガスの元栓には、ひねっただけでは開かない子ども用のカバーを噛ませた。
自分の仕事で、自分の家の火を止めた。
母は、そのことに何も言わなかった。気づいていないのか、気づいて言わないのか、修一にはわからなかった。
台所に立つのは、修一の役になった。
彼は料理がうまくない。四十六年間、飯は誰かが作るものだった。母が作り、たまに父が作り、それ以外はコンビニだった。
最初の日、味噌汁を作った。
鍋に水を入れて、沸かして、顆粒の出汁を入れて、豆腐とわかめを入れて、味噌を溶いた。
できたものを、母の前に置いた。
母は、一口すすった。
それから、こう言った。
「出汁、足りひんな」
修一は、母を見た。
「顆粒、入れた」
「入れる量が足りひん。これ、四人分やろ。ほな、擦り切りで二杯や」
母はそう言って、湯呑みを持ち上げて、茶を飲んだ。
その言い方は、まったく淀みがなかった。
三時間前、母は自分の年齢を間違えていた。七十八を、六十八と言った。
それなのに、味噌汁の出汁の量は、正確だった。
修一は、次の日、キャベツを買ってきた。
試すつもりではなかった、と言えば嘘になる。
まな板と包丁を出して、キャベツを四分の一に切って、「母さん、これ、切れるか」と言った。
母は、椅子から立って、流しの前に来た。
そして、切った。
修一は、それを横で見ていた。
左手の指が、きれいに丸まっていた。爪が引っ込んで、第二関節が包丁の腹に当たっている。刃は、その関節に沿って上下するだけで、指のほうへは一ミリも入らない。
包丁は、ほとんど音を立てなかった。とん、とん、ではなく、しゃ、しゃ、という音だった。
三十秒ほどで、四分の一のキャベツが、細い糸のようになって、まな板の上に積まれた。
修一が切ると、太いのと細いのが混ざる。母のは、全部同じ太さだった。
「うまいな」
「そら、うまいわ」
母は包丁を置いて、まな板の上を手で寄せて、ボウルに入れた。
それから、水道で包丁を洗って、布巾で拭いて、刃を奥にして、まな板の向こう側に置いた。
その置き方まで、決まっていた。
修一は、洗ったキャベツを冷蔵庫にしまって、居間に戻った。
三十分後、母が台所に来て、ボウルの中を見て、言った。
「これ、誰が切ったん」
七月に入って、ケアマネジャーがついた。
立石千夏という三十四歳の女で、事務的な人だった。市の窓口で要介護認定の申請をして、認定調査が来て、七月の半ばに要介護2が出た。
立石は、家の中を一通り見て、母と十分ほど話して、それからテーブルにファイルを広げた。
「網野さん。デイサービス、週二回から始めましょう」
「母は、行かんと思います」
「行かない方が多いです。最初は」
「無理に行かせるんですか」
「無理には行かせません。でも、お母さんが家にいるあいだ、網野さんは働けませんよね」
修一は、黙った。
「網野さん、いま、おいくつですか」
「四十六です」
「あと、二十年働きますよね」
「……はい」
「じゃあ、いまのやり方は、二十年もちません」
この人は、正しいことを、まっすぐ言う人だった。
修一は、その正しさが、少し腹立たしかった。腹が立ったということは、たぶん、当たっていたということだ。
「ひとつ、訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「うちの母、料理はもう無理やって言われたんですけど、包丁は使えるんです。三十年やってたときと、たぶん同じくらいに」
立石は、うなずいた。
「手続き記憶っていいます」
「手続き」
「体で覚えたことは、後まで残るんです。自転車の乗り方とか、楽器とか。お母さんの場合は、調理の動作」
「じゃあ、なんで、火を忘れるんですか」
「動作は残っていても、『いま自分が何をしている途中か』を保持できないんです。切る動作はできる。でも、切ったあと、それを何に使うつもりだったかが消える」
修一は、天井を見た。
「一番いいとこだけ残ってるみたいですね」
「そうですね」
立石は、少し考えてから、こう言った。
「でも、そうでもないですよ。残っている手のほうが、辛いこともあります」
「なんでですか」
「できることが残っていると、周りが、まだ大丈夫だと思うので」
第五章あきら7月23日 木
七月二十三日、木曜日。
その夜は、暑かった。
修一は一時前に寝て、二時ごろ、廊下の音で目が覚めた。
襖を開けると、母が立っていた。
寝間着のまま、廊下の真ん中に、こちらを向いて立っていた。電気はついていなかった。窓からの明かりで、輪郭だけが見えた。
「母さん。どうした」
母は、動かなかった。
修一は近づいて、肩に手を置いた。
「トイレか」
母は、修一の顔を見上げた。
そして、言った。
「あきら」
修一の手が、止まった。
「あきら、寒ないか」
暑い夜だった。エアコンをつけていても、廊下は蒸していた。
「母さん、俺や。修一や」
「毛布、持ってこよか」
「母さん」
「じっとしてたらあかんで。冷えるさかい」
母は、そう言って、修一の腕をさすった。
二回、上から下へ。
それから、自分の部屋に戻って、寝た。
修一は、廊下に立っていた。
あきら。
網野修一。父は節男。母はヨシ。父方の祖父は勝治、祖母はトミ。母方は、修一が生まれる前に両方とも死んでいる。
親戚の中に、あきら、という名前の男はいない。
修一は、そのまま台所へ行って、水を飲んだ。
コップを置いて、電気をつけずに、しばらく立っていた。
母が誰かを人違いした、というだけの話だ。
認知症では、よくあることだと、パンフレットにも書いてあった。息子を夫と間違える。娘を妹と間違える。死んだ人と、生きている人が、順番なしに並ぶ。
だから、これは、よくあることだ。
ただ、修一には、ひとつだけ引っかかることがあった。
母は、寒ないか、と言った。
夏の、蒸した廊下で。
毛布を持ってこようか、と言った。
人違いをしているだけなら、いまの季節は、いまの季節のはずだった。
翌朝、修一は訊こうとした。
母は台所にいて、トースターの前に立っていた。中の様子を、じっと見ていた。焼けるのを見ているのではなく、見張っている顔だった。
「母さん。ゆうべ」
言いかけて、修一は口を閉じた。
母は、ゆうべを持っていない。
訊いたところで、母は困るだけだった。困らせて、こちらが何かを受け取れるわけでもない。
「なんや」
「いや。なんでもない」
パンが上がった。
母はそれを皿に載せて、修一の前に置いた。
皿の位置を、少しだけ、右に直した。
第六章戸籍7月25日 土
七月二十五日、土曜日。
修一は市役所へ行った。
窓口で、自分の戸籍謄本を取った。それだけでは足りなかったので、係の人に事情を話して、母の戸籍を遡るものを出してもらった。除籍謄本、という名前だった。
昔の戸籍は、手書きだった。
コピーされた紙には、薄れた縦書きの字と、判子と、線が並んでいた。読むのに時間がかかった。
修一は、待合の椅子に座って、それを読んだ。
網野節男。網野ヨシ。婚姻、昭和四十九年十一月。
その下に、子が二人いた。
修一は、そこで、息が止まった。
その下に、もう一行あった。
修一は、その二行を、何度も見た。
生年月日と、死亡年月日のあいだを、指で数えた。
四十七日だった。
修一は、市役所の待合で、しばらく動かなかった。
昼前で、番号を呼ぶ声が続いていた。子どもを連れた夫婦がいて、その子どもが床のタイルを踏まないように歩く遊びをしていた。
修一は、四十六年、この紙を見たことがなかった。
自分の戸籍を取ったことは、二回ある。就職のときと、免許の書き換えのときだ。そのときの紙には、修一と、父と、母しか載っていなかった。
死んだ子は、そこには出てこない。
除籍のほうを取らないと、出てこないのだ。
修一は、車に戻って、エンジンをかけずに、しばらく座っていた。
父は、一度も言わなかった。
父は寡黙な人で、機械の部品を作る町工場で四十年働いて、六十八で死んだ。膵臓だった。入院してから死ぬまでが三ヶ月で、そのあいだに、修一は父と、たぶん合計で二時間も話していない。
母も、一度も言わなかった。
修一は、家に帰った。
母はデイサービスに行っていて、いなかった。四時に送りの車が来る。
修一は、仏間に入った。
仏壇は、家を建てたときに買ったものだと聞いていた。修一が四つか五つのころだ。
中に、位牌が四つある。
いちばん大きいのが、父方の祖父。その隣が祖母。三つ目が父。
四つ目は、小さかった。
高さが、他の三つの半分もない。黒い、地味なやつだった。
修一は、子どものころから、それを見ていた。
誰のものかは、訊いたことがなかった。
訊かなかったのは、それが、あまりにも当たり前にそこにあったからだ。家具と同じだった。人は、自分の家の柱の本数を数えない。
修一は、その位牌を、手に取った。
軽かった。
表に、戒名が書いてあった。院号のない、短い戒名だった。修一には読めない字が二つ混ざっていた。
裏を見た。
行年一歳。
四十七日で、一歳と書くのだと、修一は初めて知った。
彼は、位牌を戻した。
戻すときに、手が震えて、金具にぶつかって、小さな音がした。
仏間を出て、廊下に座った。
訊けばよかった、と思った。
でも、いつ訊けばよかったのか、修一にはわからなかった。
この家では、誰も、その話をしなかった。しない、というのが、この家の作法だった。修一は、その作法の中で育って、その作法を、疑わなかった。
四時に、送迎の車が来た。
母は玄関で靴を脱いで、「ただいま」と言った。
機嫌がよかった。デイサービスで、風船を使った体操をしたらしい。それは楽しかったらしい。ただ、どこへ行ってきたのかは、言えなかった。
修一は、母を居間に座らせて、茶を淹れた。
それから、訊いた。
「母さん。あきらって、誰や」
母は、湯呑みを持ったまま、修一を見た。
目が、動かなかった。
三秒か、四秒だった。
それから、母は言った。
「あきらは、あきらやろ」
「うん」
「なんべんも言わすな」
母は、茶を飲んだ。
修一は、それ以上、訊けなかった。
訊けるうちに訊いておけばよかった、という言葉が浮かんで、彼はそれを、頭の中で握りつぶした。
訊けるうちというのは、いつだ。
母は、去年も、十年前も、二十年前も、この話をしなかった。
訊けるうちなんて、最初から、なかったのかもしれなかった。
第七章迫田さんの話8月8日 土
年賀状の束は、母の簞笥の一番下の引き出しに入っていた。
輪ゴムで、年ごとにまとめてあった。いちばん古いのが平成の初めで、いちばん新しいのが今年の一月だった。年々、薄くなっていた。
今年の束は、七枚しかなかった。
そのうちの一枚に、迫田澄子という名前があった。
文面は印刷だったが、余白に手書きで、こう添えてあった。
「網野さん、膝はどうですか。またお茶でも。迫田」
修一は、その住所に手紙を書いた。電話番号がわからなかったからだ。母の様子と、少し話を聞かせてほしいということを、便箋一枚に書いた。
返事は電話で来た。三日後の夜だった。
八月八日、土曜日。
迫田澄子の家は、市の南のほうの、県営住宅だった。エレベーターのない四階建ての、三階だ。
七十一歳だという。母より七つ下で、給食室で三十年以上一緒だったらしい。
修一が上がると、部屋は涼しかった。エアコンがよく効いていて、テーブルの上に、麦茶と、皿に載った西瓜が出ていた。
「あんた、修一君か」
「はい」
「大きなったなあ」
迫田さんは笑った。前歯が一本、金属だった。
「ヨシさんに、赤ちゃんのとき見せてもろたわ。給食室の裏に、抱いて来はったん」
「そうですか」
「せやから、四十六年ぶりや」
修一は、母の状態を話した。
診断のこと。薬のこと。デイサービスのこと。焦げた鍋のこと。
迫田さんは、途中で一度、目を閉じた。
「ヨシさんが、火を」
「はい」
「そうか」
それから、しばらく黙って、西瓜を勧めた。
修一は、種を出しながら、訊いた。
「迫田さん。給食室って、どんな仕事やったんですか」
「どんな、て」
「俺、知らんのです。母が、何をしてたんか」
迫田さんは、少し驚いた顔をした。
それから、話しはじめた。
朝は五時に家を出る。六時に給食室に入る。まず検収といって、その日届いた材料を一つずつ確かめる。温度を測る。傷んだものがないか見る。
それから、下処理。人参、玉葱、じゃがいも。五百人分の野菜というのは、想像より多い。玉葱だけで、段ボールで二箱ある。
釜は、直径八十センチの回転釜が三つ。汁物、煮物、揚げ物。汁物の釜には、水が九十リットル入る。
「あれ、混ぜるのはね、櫂で混ぜるの。船の櫂みたいなやつ」
迫田さんは、両手を前に出して、動かしてみせた。
「こう、下から起こすようにして。底が焦げるからね。焦げたら、その日、五百人が食べられへんから」
「五百人」
「うちの学校は五百二十人。多いときは六百」
「それを、何人で」
「六人」
修一は、麦茶を飲んだ。
「配缶いうて、クラスごとの食缶に分けるんやけど、これがきっちり同じ量にせなあかん。一年生と六年生で量も違うし。ぜんぶ、十一時半までに終わらせる」
「十一時半」
「そう。六時に入って、十一時半。毎日」
迫田さんは、そこで少し笑った。
「うちらの世代は、みんな腕がおかしいんよ。腱鞘炎。ヨシさん、左の手首に火傷の跡あったやろ」
修一は、うなずいた。
ある。細長い、白い跡が、母の左の手首の内側にある。
物心ついたときから、あった。修一は、それを、母の体の一部だと思っていた。ほくろと同じように。
「あれ、揚げ物の油。平成の何年やったかな。ヨシさん、そのまま最後まで仕事してはった。病院、行かはったんは、その日の夜」
「……なんでですか」
「行ったら、次の日、代わりがおらんもん」
修一は、湯呑みの底を見ていた。
「あんな、修一君」
「はい」
「うちら、子どもの顔、覚えてへんのよ」
「え」
「給食室って、教室に行かへんの。廊下から食缶渡して、それで終わり。だから、誰が食べてるか知らんまま、三十年やるわけ」
迫田さんは、西瓜の皮を皿に置いた。
「ヨシさんが、いっぺんだけ、言うたことがあってな」
「はい」
「『うちら、何千人に食べさせて、一人も覚えてへんな』って」
「……」
「そのときに、こう言わはった。『けど、あの子らの体は、うちらが作ったんやで』って」
修一は、顔を上げた。
「そんなん、大げさやろ、て、うちは笑うたんよ。そしたらヨシさん、真面目な顔して、『大げさやない。計算したらわかる』って」
「計算」
「六年間で、千百回くらい給食があるやろ。ほんで、育ち盛りの子が食べるもんの三分の一が、給食やと。せやから、あの子らの体の何割かは、うちらの釜から出てる、て」
迫田さんは、そこで、少し目を細めた。
「変わった人やった。ヨシさん」
修一は、しばらく何も言えなかった。
それから、いちばん訊きたかったことを訊いた。
「迫田さん。母は、四時になると、どこかへ出かけてたと思うんです」
「四時」
「はい。俺が子どものころは、保育所の迎えでした。でも、俺が大きくなってからも、行ってたらしいんです。隣の人が、そう言うてました」
迫田さんの顔から、笑いが引いた。
彼女は、テーブルの上の湯呑みを、少し動かした。
「修一君は、お兄さんのこと、知ってはるの」
修一は、息を吸った。
「先月、戸籍で見ました」
「そう」
「母から聞いたことは、一度もありません」
「そうやろな」
迫田さんは、うなずいた。
「うちも、いっぺんだけしか聞いてへん。二十年ぐらい前かなあ。忘年会のあとで、二人で駅まで歩いてるときに」
「……」
「明ちゃんいう子が、生まれてすぐ、心臓の病気で。ずっと病院におって、四十七日で亡くならはった」
修一は、両手を膝の上に置いていた。
「病院がな、その頃は、面会の時間が決まってたんやて。午後四時から六時まで。ヨシさん、四十七日、毎日四時に行かはった」
部屋の中で、エアコンの音がしていた。
外で、蟬が鳴いていた。
「ほんで、その次の年に、修一君が生まれたんやろ」
「三年後です」
「そうか。三年か」
迫田さんは、麦茶をつぎ足した。
「そのあと、四時いうたら、修一君の迎えやったわけや」
「はい」
「せやけどな」
迫田さんは、修一を見た。
「修一君が中学に上がってからも、ヨシさん、四時には帰らはった。残業みたいなん、いっぺんもせえへんかった。うちらが『ヨシさん、ちょっと手伝うて』言うても、『四時やから』言うて、帰らはった」
「どこへ行ってたか、聞いてはりますか」
「聞いてへん」
迫田さんは、はっきりそう言った。
「お墓かもしれんし、ちがうかもしれん。うちは知らん。知らんことを、知ってるみたいに言うたらあかんから」
修一は、うなずいた。
この人は、正直な人だった。
帰り際、玄関で靴を履いていると、迫田さんが後ろから言った。
「修一君」
「はい」
「ヨシさん、あんたの弁当、毎日作ってはったやろ」
「……高校のときは」
「あれな、うちらの職場で、ちょっと有名やってん」
「なんでですか」
「毎朝、五時に家出る人が、その前に弁当作ってるいうて」
修一は、ドアノブを持ったまま、動けなくなった。
高校の三年間、彼は毎日、弁当を持っていった。
それが、何時に作られたものかを、彼は考えたことがなかった。
弁当は、朝、台所のテーブルの上に、当たり前に置いてあった。
当たり前に置いてあるものについて、人は、何も考えない。
第八章夏の終わり8月 – 9月
八月は、ひどい月だった。
その年の夏は、九日連続で三十六度を超えた。修一の仕事は、暑いほど増える。エアコンの室外機に付属したガス配管の点検、給湯器の異常停止、風呂の追い焚きが効かないという苦情。
朝七時に出て、帰るのが八時を回る日が続いた。
母は、デイサービスに週三回行くようになっていた。行かない日は、家にいる。
修一は、朝、母に食パンとバナナを出して、昼のぶんをラップに包んで冷蔵庫に入れて、玄関の鍵を閉めて出た。
鍵を、外から閉めた。
最初にそれをした日、修一は車の中で十分ほど動けなかった。
人を家に閉じ込めているという感覚が、はっきりとあった。それでも、閉めなかった日に母が出ていったら、と考えると、閉めるほうを選んだ。
立石に相談すると、彼女は「よくあります」と言った。
「よくあるけど、いいことではないです。火事のときに出られないので」
「じゃあ、どうしたら」
「本当は、日中誰かがいる状態を作るしかないです」
「働かんと、金がないです」
「そうですね」
立石は、それ以上は言わなかった。
八月二十二日、土曜日。
その日、修一は緊急の呼び出しで、夜の九時まで出ていた。
家に帰ると、母がいなかった。
玄関の鍵は閉まっていた。掃き出し窓のクレセントが外れていた。母は、そこから出たらしかった。
修一は、車で近所を回った。四十分回って、見つからなかった。
警察に電話をした。
母は、十一時過ぎに見つかった。
家から二キロ半離れた、国道沿いのコンビニの駐車場にいた。店員が声をかけて、警察を呼んだのだという。
修一が着いたとき、母はパトカーの後部座席に座っていた。
寝間着のままで、素足にサンダルを履いていた。足の裏が、真っ黒だった。
「網野さん、息子さんです」
警官がそう言うと、母は修一を見た。
そして、こう言った。
「あんた、誰」
帰りの車の中で、修一は何も言わなかった。
家に着いて、母を風呂場に連れていって、足を洗った。
洗いながら、母が言った。
「迎えに行かなあかんのに」
修一の手が、止まった。
「もう十一時や」
「そんなことない」
「十一時や。真夜中や」
「四時やろ」
修一は、シャワーを止めた。
そして、怒鳴った。
「四時ちゃうわ!」
自分の声が、風呂場に反響した。
思っていたより、ずっと大きな声だった。
母は、動かなくなった。
風呂の椅子に座って、濡れた足を出したまま、口を少し開けて、修一を見ていた。
それから、目のふちが赤くなった。
「……ごめんな」
母は、そう言った。
「ごめんな。ごめんな」
同じ言葉を、五回か六回、繰り返した。
修一は、シャワーの取っ手を握ったまま、そこにしゃがみこんだ。
謝られたことのほうが、ずっと悪かった。
母は、自分が何を謝っているのか、たぶん、わかっていなかった。ただ、息子が怒鳴ったので、謝ったのだ。
修一は、母の足をタオルで拭いた。
拭きながら、「怒鳴って、悪かった」と言った。
母は、「なんのこと」と言った。
もう、忘れていた。
修一だけが、覚えていた。
九月に入って、要介護の区分変更を申請した。
結果は要介護3。認知症の周辺症状と、夜間の徘徊が評価された。
立石が、施設のリストを持ってきた。
「特別養護老人ホームは、この地域だと、待機がだいたい二年です」
「二年」
「はい。要介護3だと、順番はそんなに前ではないです」
「二年、もちますか」
「網野さんが、ですか」
「両方です」
立石は、答えなかった。かわりに、リストの二枚目を出した。
「介護付きの有料老人ホームなら、空きがあります。ただ、費用が」
修一は、数字を見た。
入居金なしの月額で、十七万四千円。おむつ代と医療費は別。
母の年金は、遺族厚生年金と合わせて、月に十一万ほどだった。
差額の六万は、修一が出すことになる。
修一の手取りは、月に二十六万だった。
できない額ではなかった。
できない額ではない、と自分に言い聞かせている自分が、修一は嫌だった。
九月の半ばに、ショートステイを使った。四泊五日。
母を送り出したあと、家の中は静かだった。
修一は、その静けさの中で、二日間ほとんど眠っていた。
三日目に起きて、掃除をして、洗濯をして、それから、居間の真ん中に立った。
誰もいなかった。
このあと、母が施設に入って、何年かして死んだら、この家には自分しか残らない。
自分が死んだら、誰も残らない。
修一には、子どもがいなかった。
三十代の終わりに一度、そういう話になった相手がいたが、まとまらなかった。理由は、いま思えばたいしたことではなかった。ただ、そのときは、たいしたことだと思っていた。
彼が死んだら、網野の家の位牌は、誰も持たない。
仏間の、四つの位牌。祖父と、祖母と、父と、明。
修一が死んだら、五つになって、そこで止まる。
止まったあと、それはどうなるのか。
修一は、その先を考えて、やめた。
考えても、答えが出る種類のことではなかった。
ショートステイの最終日、迎えに行くと、母は施設の食堂にいた。
昼食のあとの時間だった。
母は、テーブルの上を拭いていた。
職員が、「網野さん、いつも手伝ってくれはるんですよ」と言った。
「そうですか」
「布巾の絞り方が、うちの誰よりうまいんです」
修一は、母の手を見た。
布巾を四つに畳んで、テーブルの奥から手前へ、一直線に引いていた。往復させていなかった。
拭いたところと、拭いていないところが、きっちり分かれていた。
第九章うつっている10月10日 – 10月15日
十月に入って、母は修一に敬語を使うようになった。
最初は、朝だった。
修一が居間に入っていくと、母が座椅子から少し腰を浮かせて、こう言った。
「あ、すんません。どちらさんですか」
修一は、「息子や」と言った。
母は、「そうですか」と言った。
納得したわけではなかった。ただ、そういうことにしておく、という顔だった。
それ以来、母は修一に丁寧に話した。
怒鳴られるより、こたえた。
母は、四十六年間、修一に敬語を使ったことがない。「修一」と呼び捨てにして、「あほ」と言い、「早よ食べ」と言ってきた。その言葉づかいが消えて、代わりに来たのが、他人への礼儀だった。
母は、誰の名前も呼ばなくなった。
あきら、という名前も、もう出てこなかった。
十月十日、土曜日。
修一は、市の東の団地に、給湯器の点検に行った。
部屋の主は、七十九歳の女性で、一人暮らしだった。作業のあいだ、彼女はずっと台所の椅子に座って、修一に話しかけていた。息子が名古屋にいること、孫が二人いること、去年、犬が死んだこと。
作業が終わると、彼女は茶を淹れてくれた。
「そこ置いときますね」
修一は、手を洗って、テーブルに座った。
湯呑みが、目の前に置いてあった。
彼は、それを、右手前に少し動かした。
動かしてから、自分の手を見た。
なぜ動かしたのか、わからなかった。
位置は、もともと悪くなかった。少し左にあった、というだけだ。それを、彼は考えずに直した。
修一は、湯呑みを持ち上げて、茶を飲んだ。
その日の夜、彼は台所で、母のためにみかんを剥いた。
剥きながら、また、手を見た。
彼は、みかんをヘタのほうから剥く。まず、ヘタを指の腹で押して、へこませて、そこから皮を四つに割る。四つに割った皮は、剥がさずに、下でつなげたままにしておく。皿の代わりになるからだ。
誰に教わったのかを、修一は考えた。
考えるまでもなかった。
母がそうしていた。
母が、彼のためにみかんを剥くときに、いつもそうしていた。ヘタから押して、四つに割って、皮を皿にして、彼の前に置いた。
高校の弁当も、そうだ。
修一は、いまでも自分で弁当を作るとき、ご飯を先に詰めて、蓋をせずに置いておく。冷ましてから、おかずを入れる。おかずは右側に寄せる。汁気のあるものは、必ず一度、菜箸で押して、汁を切る。
誰かに習ったことは、一度もない。
彼は、母の弁当を、三年間、毎日食べただけだ。
修一は、剥いたみかんを、母の前に置いた。
母は、「おおきに」と言って、それを食べた。
食べ終わったあと、母は皮の四つ割りを見て、少し笑った。
「きれいに剥かはるなあ」
十月十五日、木曜日。物忘れ外来の定期受診だった。
診察が終わって、母が待合に出たあと、修一は医者に訊いた。
「先生。変なことを訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「母は、もう俺のことがわかりません」
「はい」
「それでも、母がやってきたことは、俺の中にあるんです。みかんの剥き方とか、弁当の詰め方とか。俺は、それを教わった覚えがないんですけど、体が覚えてます」
医者は、うなずいた。
「それ、母が全部忘れたあとも、俺の中には残るんですよね」
「残ります」
「じゃあ、母が死んでも、残りますよね」
「残ります」
「それは」
修一は、言葉を探した。
「それは、母が、無くならへんいうことに、なりますか」
医者は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり言った。
「網野さん。わたしは、それを保証できる立場にいません」
「はい」
「医学の言葉で言えるのは、こういうことです。人が体で覚えたことは、その人の中の、記憶とは別の場所に入っています。だから病気で記憶が壊れても、そちらは最後まで残ることが多い。そして、それを見て育った人の中に、同じものができる」
「はい」
「そこまでが、わたしの言えることです。その先を、どう呼ぶかは、わたしの仕事ではありません」
修一は、うなずいた。
この人は、正直な人だった。
診察室を出るとき、医者が、一言だけ付け足した。
「網野さん。お母さんは、給食の調理員をされていたと、前にうかがいました」
「はい」
「わたしは、この市の出身です」
「……」
「小学校のとき、給食でした」
医者は、それ以上は言わなかった。
修一も、何も言わなかった。
母が働いていたのは、市の北のほうの小学校だ。医者がどの学校に通っていたのかは知らない。だから、これは何の証拠にもならない。
ただ、修一は、駐車場まで歩くあいだ、迫田さんの話を思い出していた。
六年間で、千百回。育ち盛りの体の、三分の一。
母は、五百二十人に、毎日、飯を食わせていた。
三十八年やった。
単純に掛ければ、二万人近い。
その二万人の顔を、母は一人も覚えていない。
二万人のほうも、母の顔を知らない。
それでも、その二万人の体の何割かは、母のいた部屋の、九十リットルの釜から出ている。
修一は、車に乗って、助手席の母を見た。
母は、シートベルトに手をかけて、留め方がわからなくなっていた。
修一は、身を乗り出して、留めてやった。
「おおきに」
と、母は言った。
第十章持っていくもの11月9日 月
施設の入居日は、十一月九日の月曜に決まった。
市の北にある、介護付きの有料老人ホームだった。四階建てで、母の部屋は二階の、中庭に面した個室だ。八畳ほどの部屋に、ベッドと、小さな洗面台と、収納がある。
持ち込めるものは、少なかった。
施設からもらった書類に、持ち物のリストがあった。上下の肌着が各五枚、靴下五足、上着三枚、ズボン三枚、パジャマ三枚、タオル、歯ブラシ、コップ、上履き。
その全部に、名前を書けと書いてあった。
修一は、油性ペンで、名前を書いた。
肌着のタグに、網野ヨシ。靴下の裏に、網野ヨシ。コップの底に、網野ヨシ。タオルの端に、網野ヨシ。
四十枚以上、書いた。
書きながら、給食室のことを考えた。
迫田さんが言っていた。あの職場では、私物には全部名前を書く。混ざるからだ。
母も、三十八年間、自分の持ち物に名前を書いていたはずだった。
その母の持ち物に、いま、息子が名前を書いている。
荷物をまとめるために、修一は母の部屋の簞笥を全部開けた。
衣類のほとんどは処分することになった。母はもう、ほとんどの服を着られない。前開きで、ボタンの大きいものだけを残した。
いちばん下の引き出しの、年賀状の束の下に、裁縫箱があった。
木の箱で、蓋が固くなっていた。
中には、糸巻きと、針山と、鋏と、ボタンの入った空き缶が入っていた。
その下に、封筒があった。
茶色い、事務用の封筒だった。糊はしてなかった。
中に、二つ入っていた。
一つは、母子手帳だった。
表紙に、網野明、と書いてあった。母の字だ。まだ若い、力の入った字だった。
開くと、身長と体重の記録が、三回だけあった。生まれた日と、二週間後と、一ヶ月後。
三回目の数字は、二回目より小さかった。
予防接種の欄は、全部、空白だった。
もう一つは、写真だった。
カラーだが、色が抜けて、全体が薄い黄色になっていた。
保育器の中に、赤ん坊がいた。
管が二本、体に付いていた。顔は、目を閉じていて、口を少し開けていた。
小さかった。
修一は、その写真を、蛍光灯にかざした。
裏に、鉛筆で、日付が書いてあった。
生まれて八日目だ。
修一は、封筒を持って、居間に行った。
母は、テレビの前に座っていた。
彼は、母の隣に座って、写真を差し出した。
「母さん。これ」
母は、写真を受け取った。
目を近づけて、見た。
しばらく見ていた。
それから、こう言った。
「かわいらしい赤ちゃんやな」
修一は、うなずいた。
「どこの子や」
「……知らん」
「そうか」
母は、写真を修一に返した。
返すとき、指で、写真の表面を一度だけ撫でた。
撫でてから、返した。
修一は、その写真を、自分の財布に入れた。
入れるとき、少し迷った。仏壇に置くか、施設に持っていくか、自分が持つか。
母は、もうこれが誰かわからない。施設に置いても、意味がない。
仏壇に置けば、四十六年前と同じところに戻るだけだ。
だから、彼が持つことにした。
母子手帳は、仏間の引き出しにしまった。
入居の前の日、修一は台所の道具を整理した。
母が使っていた鍋と、フライパンと、菜箸と、しゃもじ。
しゃもじは、木のやつだった。
プラスチックのものが二本あって、木のが一本ある。木のは、うんと古かった。先が薄くなって、端が丸くなっている。
柄のところに、黒い油性ペンで、字が書いてあった。
消えかけていた。何度も書き直した跡があった。同じ場所に、三回か四回、上から書いてある。
これは、給食室のものだ。
修一は、それを、母の荷物の袋に入れた。
十一月九日、月曜日。
施設の職員は、荷物を一つずつ確認した。若い男の職員で、丁寧な人だった。
しゃもじのところで、彼は手を止めた。
「これは」
「母のです」
「あ、はい。えっと、居室に食事の道具は」
「使いません」
「……はい」
「持ってるだけで、ええんです」
職員は、少し考えて、「わかりました」と言って、それを収納の中に入れた。
部屋の準備が終わったのが、二時ごろだった。
母は、ベッドの端に座って、窓の外を見ていた。中庭に、柿の木が一本あって、実がまだ残っていた。
修一は、荷物の場所を一通り説明した。母は聞いていなかった。
「母さん」
「はい」
「また来るから」
「はい」
母は、修一を見上げた。
そして、少し頭を下げた。
「おおきに」
修一は、部屋を出た。
廊下を歩いて、エレベーターに乗って、玄関で靴を履いて、車に乗った。
駐車場で、彼はエンジンをかけずに座っていた。
時計を見ると、二時二十分だった。
あと一時間四十分で、四時になる。
母は、今日、どうするだろう、と修一は思った。
立ち上がって、廊下に出て、玄関へ行こうとするだろうか。
知らない建物の、知らない廊下を。
修一は、エンジンをかけた。
エピローグ四時の人11月23日 月
十一月二十三日、月曜日。
勤労感謝の日で、修一は仕事が休みだった。
施設に着いたのが、十一時半だった。昼食の時間に合わせて来てほしいと、前に職員から言われていた。食べているところを見てもらったほうが、様子がわかるからだ。
二階の食堂は、明るい部屋だった。窓が大きくて、中庭が見える。四人がけのテーブルが六つあって、二十人ほどが座っていた。
母は、いなかった。
いや、いた。
テーブルのあいだを、歩いていた。
修一は、入口のところで足を止めた。
母は、一つ目のテーブルの前で立ち止まって、盆の上に手を伸ばした。
汁の椀を、右手前へ。
茶碗を、左手前へ。
おかずの皿を、その奥へ。
三つを、それぞれ数センチずつ動かした。動かしてから、少し体を引いて、上から見て、それでいいという顔をして、次のテーブルへ行った。
次の盆も、同じようにした。
その次も。
修一は、そこに立って、それを見ていた。
「網野さん」
若い女の職員が、横に来た。
「お母さん、毎日こうなんですよ」
「……止めなくて、ええんですか」
「止めません。危なくないので」
職員は、母のほうを見て、少し笑った。
「最初の日から、そうなんです。配膳が終わると、ぜんぶ見て回らはって」
「他の人、嫌がりませんか」
「いえ。むしろ、直してもらわんと落ち着かへんって言う方もいて」
修一は、うなずいた。
「網野さん、お母さん、給食のお仕事されてたんですよね」
「三十八年です」
「じゃあ、これ、お仕事なんですね」
職員は、それから、思い出したように言った。
「あ、それと。荷物に入ってた木のしゃもじ、お母さん、ときどき出して持ってはります」
「捨てられませんでしたか」
「捨てません。なんにも言わはらへんけど、しばらく握ってから、また戻さはります」
母は、六つ目のテーブルまで行って、そこで終わった。
それから、自分の席に戻って、座った。
修一は、母の向かいに座った。
職員が、修一のぶんの昼食も出してくれた。面会者用の食事で、五百円だと言われた。
盆が二つ、テーブルに置かれた。
母は、自分の盆を見た。
それから、修一の盆に手を伸ばした。
汁の椀を、右手前に動かした。
茶碗を、左手前に。
修一の顔は、見なかった。
盆だけを見て、直して、それから、自分の箸を取った。
「いただきます」
と、修一は言った。
母は、顔を上げた。
そして、言った。
「はい、どうぞ」
その日の献立は、ご飯と、味噌汁と、鮭の焼いたのと、ほうれん草の胡麻和えと、みかんが半分だった。
母は、汁から先に飲んだ。
修一は、自分の盆を見た。
汁の椀が、右手前にあった。
彼は、それを見ながら、思い出していた。
自分の家の食卓も、ずっとこうだった。四十六年、ずっとだ。
そして、去年、大峰さんと現場で弁当を食べたとき、大峰さんが「網野は几帳面やな」と言った。理由を訊くと、「弁当と茶ぁの置き方が、いっつも同じや」と言われた。
修一は、そんなことを意識したことがなかった。
昼食のあと、二人で中庭に出た。
柿の木の実は、二週間前より減っていた。鳥が食べたのだと、職員が言っていた。
母はベンチに座って、しばらく木を見ていた。
「あれ、渋いやつやな」
「そうなん」
「あの形は、渋いのや」
母は、そう言った。
合っているのかどうか、修一にはわからなかった。
三時ごろ、母は部屋に戻って、少し眠った。
修一は、廊下の椅子に座って、待っていた。
帰ってもよかった。母は、彼が帰ったことに気づかない。
それでも、彼は待った。
四時十分前に、母が部屋から出てきた。
修一は、立ち上がった。
母は、廊下を見て、それから、エレベーターのほうを見た。
そして、歩きだした。
「母さん」
母は、止まらなかった。
修一は、追いついて、横に並んだ。
「どこ行くん」
母は、前を向いたまま、言った。
「迎えに行かな」
「そうか」
「もう四時やろ」
「四時や」
修一は、少し歩調を落とした。
「ほな、行こか」
母は、修一を見た。
一瞬、不思議そうな顔をした。
それから、「うん」と言った。
二人で、廊下を歩いた。
この階の廊下は、四角く一周している。ぐるりと回ると、また同じ場所に出る。設計した人は、たぶん、そういうつもりで作ったのだろう。
職員が、詰所の中から、こちらを見た。
修一が軽く頭を下げると、職員も下げて、何も言わなかった。
西側の廊下に出ると、窓から日が入っていた。
十一月の四時は、もう夕方だった。日が低くて、床に、窓枠の影が長く伸びていた。
母は、その中を歩いた。
修一は、誰を迎えに行くのかを、訊かなかった。
訊いても、答えは出ない。
保育所の彼かもしれないし、病院の保育器の中の子かもしれない。両方かもしれないし、どちらでもないのかもしれない。
母の中で、四時は、四十九年間、迎えに行く時間だった。
その理由が全部消えたあとも、時間だけが残った。
中身が全部なくなって、器だけが残るというのは、無に近いのだろうか。
修一には、わからなかった。
ただ、その器は、まだ、毎日四時に立ち上がる。
二周目の途中で、母が立ち止まった。
窓のところだった。
母は、修一のほうを向いた。
そして、手を伸ばして、修一の腕をさすった。
二回、上から下へ。
「冷えるさかいな」
夏の夜と、同じ動きだった。
あのときは、あきら、と呼ばれた。
今日は、何も呼ばれなかった。
母は手を離して、また歩きだした。
修一は、その後ろを歩いた。
この手つきを知っているのは、いま、この世界で、修一ひとりだった。
母は、自分がそうしていることを知らない。父はもういない。明は、四十七日で死んだ。
修一は、それを、誰にも渡せない。
渡せないまま、持っている。
持っているあいだは、たぶん、無ではない。
母は、五十年近く、そのことを信じたがっていたのだと思う。
修一は、まだ、信じてはいない。
ただ、持ってはいる。
廊下の角を曲がると、また西向きの窓が来た。
日が、さっきより少しだけ低かった。
(了)