水曜日の設計図
三崎奏と宮下透の四年間を、人物の線・語りの構造・年表・ノートの構造・モチーフ・悲しみの設計の六つに分解したものです。日付はすべて作中の時間で、年は交際開始年を第1年としています。
人物相関
登場人物は六人。周囲の四人は全員、二人のあいだで「言葉を運ぶ」役をしています。誰が誰に何を渡したかを線に書きました。
語りの構造
全11章+エピローグ。奏と透が一章ごとに交替し、第十章の途中で奏の語りが「ま」の一文字で止まり、以降は戻りません。読者は、透と同じ位置に取り残されます。
年表
出会いから最後の水曜日まで四年。前半二年は「まだ言わない」時間、後半二年は「できることが移っていく」時間です。
出会い、交際開始
互いの休みが重なるのが水曜日だけだった別れ際に「また明日」と言いはじめる
「さよならって言いたくないから」(奏)ノクターンのトリルが転ぶ
最初の異変。誰にも言わない薬指が上がりきらない
練習不足だと思い、毎朝ハノンを弾き直す実家で箸を落とす/右手の筋肉のへこみに気づく
知って、知らないことにするスーパーで二リットルの麦茶が持てない
第一章。透は笑い、蓋を開けて渡すレッスンで生徒の手にぶつかる/その夜、病院を予約
電話で打ち明けられる/筋電図検査に付き添う
「半年前じゃん」告知。進行性、治療法なし。
「感覚は、最後まで残ります」
「透くんの人生を、透くんに返す」と別れを切り出す
断る。「奏がいない人生を、俺が生きられると思う?」
同居開始(エレベーター・手すり・ピアノの置ける部屋)
透の初めての卵焼き=砂糖大さじ2。「甘いほうが好き」『できたことノート』開始
できたことだけ書く。後ろのページから、透の記録も字が書けなくなる/髪を結えなくなる/入浴は見守りへ
髪を洗う、ボタンを留める、抱えて起こす(腰を痛める)
雨の朝。「透くんを起こした」/「起きた」
ノートの両側に、同じ日の同じ一行皿を割り、「うるさい」と言ってしまう
奏が床を這って五センチ進む初めて「しんどい」と言う
「両方本当なんだよ。どっちかが嘘じゃないんだ」教室を閉じる。咲希の最後のレッスン
「わたし、ピアノ続ける」左手一本、八小節。「水曜日のうた」
「弾けるようになったら、私に聴かせて」誤嚥性肺炎で入院、そのまま退院できず
婚姻届。証人は奏の母と宮川さん
残された水曜日は、あと19回声を失う。透明文字盤へ
まばたき1回=はい、2回=いいえ一週間で、「あ」を見た瞬間に「あ」と言えるようになる
ノート最後の記入(口述)
「透くんに、ちゃんと会えた」宮川さんに文字盤で手紙を口述。三日かかる
「ま」——そこで目が動かなくなる。
透が「またあした、だろ」と代わりに言う
葬儀。咲希「わたし、続けてます」
五時半に目が覚め、隣に手を伸ばす日々が三週間
麦茶の蓋が、かんたんに開いてしまう
渡す相手がいない。その夜、ノートの後ろを開くだし巻き卵(砂糖ひとつまみ多め)/八小節、間違えずに
誰もいない部屋に「また明日」ノートの構造
一冊のノートが、前と後ろから別々に書かれています。前は減っていく側の記録、後ろは増えていく側の記録。奏の計算では、二つを足すと収支はプラスでした。
モチーフの往復
七つの小道具が、置かれ・育てられ・最後に回収されます。順序はすべて「なんでもないもの」→「なくなって意味が出るもの」。
| モチーフ | 置く | 育てる | 回収する |
|---|---|---|---|
| ペットボトルの蓋 | 第一章透が開けて渡す、四年間 | 第一・二章奏が持てなくなる | 第十一章かんたんに開いてしまう。渡す相手がいない |
| 「また明日」 | 第一章さよならを言わないための言葉 | 第十章文字盤で毎晩五文字 | 第十一章・終章透が代わりに言う/誰もいない部屋へ言う |
| できたことノート | 第六章できたことしか書かない | 第六〜十章後ろのページが増えていく | 終章三日かけて口述された手紙 |
| 水曜日のうた | 第八章左手一本での最後の演奏 | 第十章「六小節目まで、間違えない」 | 終章八小節。「弾けたよ」 |
| 砂糖ひとつまみ多め | 第五章大さじ2の、ケーキみたいな卵焼き | 第六章「だし巻き卵(まだ甘い)」 | 終章レシピノートの書き足し |
| 省略しない「ありがとう」 | 第一章四年間、一度も省かない | 第三・八章告知した医師へ/咲希へ | 第十一章奏の母から透へ、同じ言い方で |
| 感覚は最後まで残る | 第三章医師の説明。残酷さとして受け取る | 第六章「悪い設計ではない」と読み替える | 第十章最後の午後、握られた手の温度がわかる |
悲しみの設計
結末は、題名と第三章の時点でほとんど読者に渡してあります。だからこの作品は「どうなるか」ではなく「どう失うか」で組みました。段階を五つに切り、四段目でいちばん重くして、五段目で悲しみを消さないまま意味だけを裏返しています。
| 段 | 読者が思うこと | そのために置いた事実 | 手当て |
|---|---|---|---|
| 一 | ただの疲れ、歳のせいだろう | 第一・二章麦茶が持てない/トリルが転ぶ/箸を落とす | 透は笑い、奏は「歳かなあ」と言う。単体では説明のつく範囲に抑え、読者にも一度は見過ごさせる |
| 二 | なぜ言わないのか | 第二・三章半年黙っていた。「言ったら、本当になっちゃうかなと思って」 | 奏の章で読者だけが先に知り、透の章で遅れて知る。交互の語りを、そのまま知らせる順番の差に使う |
| 三 | もう助からない | 第三章告知。「感覚は、最後まで残ります」 | 最初は残酷さとして出し、第六章で「悪い設計ではない」と読み替え、第十章で救いとして回収する。同じ一文を三回使う |
| 四 | 支える側が先に壊れる | 第七章「うるさい」/床を這って五センチ/駅のホーム | 透に「しんどい」と言わせる。「両方本当なんだよ。どっちかが嘘じゃないんだ」で、愛と疲労を片方に寄せない |
| 五 | —— | 第十〜終章「ま」の一文字/透が「またあした」と代わりに言う | 終章の手紙で「まいにち しあわせだった」だったと分かる。どちらだったかは確定させず、喪失はそのまま残す |
意図的に守った線が五つあります。病名を一度も出さない。/奇跡を起こさない(進行は止まらず、最後の言葉も最後まで言えない)。/介護を美談にしない(透は「うるさい」と言い、ベランダで泣き、駅のホームで終わりを考える)。/透を立派な人にしない(最後の一文字を、正しいと思って横取りしてしまう)。/「ま」の答えを決めない(透は「後者だと思うことにしている」だけで、確かめる方法はない)。
水曜日は祝日にならず、歌にもならない。この作品でだけ、出会いも、結婚も、最後も、そして八小節が完成する日も水曜日にしてあります。